この世には愛しか存在しない

なんて、そんな言葉を自分の口から発する日が来るだろうとは、全くもって思っていなかった。

だけど、ここのところ、愛の存在を否定するのは自分だけなのだな、と気づいたところがある。
いくら、宇宙が愛に満たされていても、それを受け取る自分が認めなかったらそうならない。
ただ、それだけのこと。

僕は、水瓶座の典型、合理主義な人間だから、キリスト教的な考え方はどうにも受け入れがたかったのだけれど、「まず信じてみる」ことからはじめると、見えてくるものがある。

 

「僕の身に降りかかるもののすべては愛だ」という思い込みと、「僕の目に映るもの、触れるものすべては僕そのものだ」という思い込み。

「物質は高いところから低いところに落ちる」というくらいに、もうそういうものだと、いくら頭で違うと願ってもどうしようもないのだ、というくらいのレベルまで思い込んでみるのだ。

 

「この世のすべてが愛だ」となると、抵抗しても仕方がない。
「この世のすべてが自分だ」となると、好かれることを望むことも、嫌われることを恐れる理由もなくなってくる。
こちらも、愛を与える以外に手段はないのだ。

 

そんなわけで、30年近く、仏教的な論理的思考で世界を見てきたが、ここのところキリスト教的な非論理的思考で生きてみているわけだ。
釈迦の伝えたかったことも、イエスの伝えたかったことも、きっと一緒なのだろうけれど、そこに到達するまでの体感は大きく変わってくる。

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