「自分のモノ」という概念を捨てていく

昔の田舎はそうじゃなかったはずなんだけど、特に都会は「個人」という概念が強くなる。
文明が発達するにつれて、人々が苦しんでいくのは、文明が発達することによって「私」という概念が強くなってくるからじゃないかと思う。

「私の家」
「私のお金」
「私の仕事」
「私の恋人」

みんな、当たり前に言うけれど、実は当たり前じゃない。
宇宙から地球を見れば、そこには地図にあるような国境線は引かれていないように、モノは誰のモノでもない。

だけど、みんなが当たり前のように使うから、当たり前のごとく思ってしまって麻痺してしまっている。

本来、土地がそこにあって、「私」が住まわせてもらっているのだけれど、いつの間にかそれが、「私」が所有するものになった。

田舎生まれの僕も、いつしかこの呪縛にはまってしまっていて、「僕の家」「僕のお金」「僕の仕事」「僕の恋人」「僕の服」「僕の食べ物」「僕の考え」「僕の言葉」「僕の~」と、どんどん個人の所有物が増えていった。

で、「私の~」が増えると、苦しくなるな、さみしくなるな、辛くなるな、って気づいて、たとえば断捨離なんかをはじめるわけだけれど、あぁ、断捨離ってそういう意味じゃないんだって気づく。

「自分のモノ」を捨てていっても、多少楽にはなるんだけれど、いつまで経っても「自分のモノ」は無くならない。
それでも残った苦しみと、新しく手に入れるさみしさがある。
つまり、苦しみ、さみしさは無くならない。

違う違う、「自分のモノ」という概念を捨てていくのが、断捨離なんだな、って。

 

「いただきます」って言葉があるじゃない?

僕は日本の文化が好きで、普段何気なく使う言葉を意識するわけだけれど、「いただきます」が表すように、昔はきちんと自分のモノじゃないって概念があった。
茶碗を持って、口元へ食べ物を引きつけるのも、受動する概念があったからだ。

ここのところ、やっと、少しずつ「自分のモノ」という概念から離れられて、日本人らしくなれてきた。
「お金を稼ぐ」とか「仕事を掴む」とか、そういう概念がどんどん離れていく。

言葉にするのは簡単だけど、感じることは難しい。
でも、そう感じられないと、お金があっても、仕事があっても、恋人や友達がいても、さみしくなるだけだと思うな。

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