なぜ、親は勉強させようとしたのだろう?

 子供の頃の10歳、20歳上の人っていうのは、今の自分より全てが優れている絶対的な大人に見えてしまうけれど、実際に自分がその歳に行きつくと、全然そうじゃないんだな、と気づく。

親って、案外もろいんだな、とか、先生って普通の人だったんだな、とか。

どうして親は勉強をさせようとしたのだろう?
勉強できるようになっても、悩みは解決しないのに。
悲しみは訪れるのに。
苦しみからは逃れられないのに。

どうして先生は勉強をさせようとしたのだろう?
授業は仕方ないけれど、「頑張りましょう」と言ったり、「もっといい点数取りましょうね」と言ったり。
校長先生に怒られるからだろうか?クビになっちゃうからだろうか?
勉強できるようになっても、自分保身に走るのに。
生徒から嫌われるのに。

せめて、勉強したら確実に得られることと、確実には得られないことを明確に示してほしかったな。

「責任」とか、「義務」って言葉は対称を間違えるとおかしなことになってしまう。
「親としての責任を果たしたから、私は間違っていない」
「先生としての義務を果たしたから、私は間違っていない」

「相手から見た正しさ」を追求しなければいけないのに、「自分の正当性」を追及してしまう。
そんなふうに、「責任」や「義務」という言葉は自分を正当化させるための便利な目印になってしまう。

 

勉強から得たものってなんだろう?
結局、何事も学んでいけば行きつくところって一緒なんだけれど、勉強したって何の意味もない。

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